著者は直接名指していないが、特異なものの奥の奥で、絶対的特異点としての普遍(象徴秩序に絡めとられる前の赤子の息吹)に出会おうとする試みは、あるいは後期ハイデッガーの母国語/詩/帰郷への傾倒と似ているのかも知れないな。
the Person One. And it is the Representer that beareth the Person, and but one Person: And Unity, cannot otherwise be understood in...
every one of that Multitude in particular. For it is the Unity of the Representer, not the Unity of the Represented, that maketh...
"A Multitude of men, are made One Person, when they are by one man, or one Person, Represented; so that it be done with the consent of...
ポイントを一言でいえば、人民の「ユニテ」は(超越論的には)「ユニオン」に先立ち、前者はマルチチュードを代表するものの人格の統一性に基礎づけられているってところか。アルチュセール自身は直接引用してはいなかったけど、念頭にあるのは『リヴァイアサン』Ch. 16であろう。
ところで昨日、ディドロ屋の後輩くんがアルチュセールの政治思想史講義のホッブズパートを全訳してきてくれたのだけど、とても面白かった。史的唯物論の観点からホッブズを読み直してるせいでアナクロなところはあるにせよ、気合いの入ったrepresentation論は一読の価値あり。
何気につぶやいてみたことだけど意外と見逃せないものを含んでるな。すなわち、ホッブズにおいて夢が究極的にはは外的対象をトリガーとする感覚(運動の表象)から区別できないとすれば、リヴァイアサンとは市民に悪夢を見せ続けるものだと言える。まさにマトリックスだな。
たとえば「声のポリフォニー」どこまでも不透明な「普遍」というモティーフを介して、カントの赤子と世界市民の関係はどう見えるかとか、想像力を刺激される。
@Keiyamamoto ご論考読ませていただきました☆大変興味深かったです。ラクラウにも俄然興味が出ました。某K君の本を読んでるときにも感じたのですが、自分の問題関心に近いといいますか、同じ時代の空気を吸って研究してるってこういうことなのかと感じ入るものがありました。
「完全に照らし出されてしまえば、人間どもは燃え尽き、ある種の魂のバーンナウトがもたらされる。透明なのはたんなる機械である。自発性、出来事、そして自由、すなわち一般に生を構成するものどもは、透明さを寄せつけない」ってとこか。
以前某教授と飲んでるときに、「論文はマスタベーションだけど、どうせ人に見せるなら拍手を贈りたくなるようなマスタベーションをこころがけたいね」といわれたこと、俺、きっと忘れない。
13歳の頃からハイデッガーを読み漁ってた変態で、いまは全集の邦訳にも携わってる(日本語も結構出来るっぽい)テュービンゲンの友人とビール片手に話した諸々がぬめーっとつながってく。アイツはこういう世界で呼吸していたのか、と。
■一分でスローターダイク■ソクラテスの産婆術の核心は、「君も僕も股の間から生まれてきた」ってことを想起させることのうちにあった。対してプラトンはこの事実に耐えられず、ママにパンツ(イデア)を履かせた。2500年の時を経てついにハイデッガーがもっかいママのパンツを剥いだ。完。
カントはどちらかというと、「パンツ自体が見えるかどうかはともかく、現われうるいかなるパンツよりすごいパンツを考えることができる俺っ!」かな。









