どきりとしました。さて、自由とは何であるかがはっきりとイメージされ、そして自ら創ろうとしていますね。RT @fuku0185 わたくしはあなたの意見には反対だ。しかしあなたの意見を言うあなたの権利をわたくしは自分の生命をかけて守ろう。 ボルテール
べてるの家のむかいやちさんは言っていた。彼にとって、ある人が病気であること自体がその人を信頼できることなのだと。その人がいかなる価値観をもっていようが、無理をしようとしようが病気があれば自然にさからうことができない。その人は病気によって、歩まざるを得ない方向性に導かれていく。
夜勤帰り。気になっていた北大路の洛北高校近くのブラジルカフェへ。モーニング300円で飲み物はカフェオレもできる。安いな。バタートースト120円。サンドイッチ200円から。コーヒーも200円。 http://twitpic.com/2b3l6l
西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』読書会。18時~20時半ごろまで。場所:トリペル、参加費500円(ワンドリンク付)。読めてなくてもレジメがあるので大丈夫。アクセス→http://tripel.blog2.fc2.com/blog-category-3.html
自分という軸を取り戻したい。自分が楽しめる動き、遊びをやるっていうだけのことをどうして今まで無視しつづけてきたのだろう。やれといわれたこと、やるべきと自分が思っていることに今までずっと投げやりにあわせようとしていた。今日は本当に自由にやらせてもらった。
自由っていうのはいつまでも自意識のものにはならないんじゃないかなと思ったりする。そこに在るものであって、関わりを得れることがあるもので。わたしは自由だなと思うのは、わたしが自由なんじゃなくて、わたし、自意識とは別個の自由が確かにそこにあるということを知ることじゃないんかな。
表現が人に自分の価値を決められるものとして認識され、その結果みんな自分が表現することを恐れ、撤退させられているんじゃないでしょうか.そしていつしか自分も人の表現に優劣をつけることによって、代替的な自己表現をし、自分の感性をアピールする。でもそこでは、プロセスはとまったままです。
僕は歌うことも、踊ることも、絵を描くことも
普通の人がそれを自分で好きに調整し、関わり、
利用し、自分の求めるプロセスを進めていくことが
多くの人に取り戻されていけばいいなと思っています。
今日はナスまでまきたかったけど、細々したことしてたら時間がなくなった。紫キャベツは不思議な雰囲気だ。 http://twitpic.com/1l7ai0
同居人がいた学校、中高一貫性のキリスト教系。それでアメージンググレースとか、あめのみつかいとか、みんなが歌ってて、ソプラノとかアルトとかテノールとか、3人ぐらいそろえば、楽器なくても教室でもどこでもその場で歌ってたと聞く。ゲームミュージックとかでそういう遊びしたい。
RT @miyauu ご無沙汰してます。前に作曲家の野村誠さんが、ワークショップを「自分の工房に招き入れること」とおっしゃっていたことを思い出しました。RT @hari_nezumi: RT @Sakura_plan (前略)「自分の世界に招き入れる」というのが一番しっくり
坂本公成さんが僕が前行ってたコンタクトのレッスンに来ていて、話しをきいたときがあった。コミュニケーションは既にあって、既におこっているものだというのが現在の理解だ、と言っていた。内心、会心の思いだった。
人が表現したものは人について語られたもの。物語において神でも羊でも機械でも人間が表現したものは人間についての表現だ。人間は人間しか表現できない。
ものづくりをする人の感性や感覚の豊かさやまっとうさを改めて実感する。作品をつくるなかで追究されていく現実がある。発する言葉が一つ一つ聞き逃せない。なめしにはタンニンやクロムがつかわれること。クロムは燃やすと有毒なこと。肌にいつも触れるものならタンニンなめしにしたいこと。
変わらない状態とは、何か拮抗している状態かと思う。しかし、信頼していいことがある。それはバランスの崩れだ。何もイコールではない。どのようなものでも、究極的な調和のなかになく、バランスは崩れている。バランスの崩れを利用していくことができる。
明日のないところ、世界の終わりにいる状態。そこで生きている人に共感する。本当は誰もそうなんだと思う。惰性で生きて、辛いのはいやで、自分で自分を駄目にしていきながら、でもこの気持ち悪さのなかで生きていくのは嫌なんだ。
何かが出来るから自分は価値が高い、何かであるから自分は偉いという考え方は、まず先に否定という前提があってこそ成り立ち、その脅迫感や否定、みじめさがなければ、あるいはなくなれば、そもそも達成なんかどうでもいいことなのでは。
ロバート・ニュートン・ペック『豚の死なない日』では、少年は愛していた豚を自らの手で殺し、解体し、家族と自分のための食料とする。生きるために、生きるしかない自分にするのだ、自らの手によって。














