はい。それとは別にこのトーク、はやく仕切り直さなければ。 (#abr2010 live at http://ustre.am/d0LS )
@kenjirookazaki 「自分を支持してくれる人たちに対して責任をとる」、というのはあくまで自分の立てたロジックの中で試みるのであって、「情にこびる」ということでは全くないのですが。。 昨晩からのツイートを受けた発言で言葉足らずだったのかもしれません。
@kenjirookazaki ツイッターで「話す」というのもなかなか不思議な感覚ですがw 朝早くにすみませんでした。失礼致しました。
.@kenjirookazaki なるほど。ぼくの言っているコミュニティーとは若干異なる定義のようです。ぼくが適当にコミュニティーという言葉を使っていたのかもしれません。申し訳ないです。
.@kenjirookazaki 批評家はコミュニティーに拘泥はしませんが、まるで自分はコミュニティーとまったく関係ないかのような振る舞いをするのは、果たして正しいのでしょうか。ぼくが長年岡崎さんの論を読み続けて、魅せられ続けて、唯一ひっかかった部分です。
.@kenjirookazaki 言うまでもないことですが、批評を承認欲求を満たすために使うべき、と言っているわけではありません。ただ、人間は承認欲求を持っていて、批評や思想がその承認欲求に関係したりする、という現実を織り込んだ批評をしたい、と思うことは否定されるべきではない。
.@kenjirookazaki しかし、そうだとしても、現実にある批評(思想)によってコミュニティーが形成されている(把握される)のだとしたら、人にはそのように見えているのだとしたら、その幻影に付き合うことも批評家の役割だと思います。
.@kenjirookazaki むろん、こういうぼくの批評家像を、岡崎さんは真っ向から否定されていることも知っています。
.@kenjirookazaki ぼくも岡崎さんの熱心な読者だったので、おっしゃることはわかります。しかし仮に、そのような批評が全く閉じたコミュニティーでしか支持を得られなかったとしたら、それを具体的に、実践的に開いてゆくこと(人を説得してゆくこと)が批評家の仕事だと思います。
批評家をやめるとき、アーティストをやめるとき、それは当人の意思はどうあれ、表現が世界に届かず、忘れ去られるときのことだ。
批評でもアートでもなんでも、世に出た以上、自分の都合でやったりやめたりできるもんじゃない。批評として、アートとして、それを世に問い、ある程度受け入れられた時にはじめて批評家やアーティストになるのであって、自己申告すればなれるわけではない。それはやめるときも同じ。
ぼくがいままで批評家として発言してきたことに対する責任を放棄して、美術家として忙しくなったんでやめます、はありえない。だからぼくは批評家をやめません。
その当たり前の責任が果たせなければ批評家失格、壇上にあがる資格なし、、なのだが、だからといって、じゃあ批評家やめます、というわけにはいかない。それこそが一番無責任なことだ。
確認するが、先日のシンポについては反省している。自分の活動に向けられた誠意ある批判に真正面から答えられない、ということは、自分を支持してくれている人たちを裏切るということだ。当たり前のことだけど、一番重要なこと。
.@hazuma そして、にもかかわらず、2つに接点があり得るとしたら、それは何か?という点のみが争点なのだと思います。それは村上さん、カオス、それぞれが別々の解を出すべきだとも思います。
.@hazuma だからといって、美学的に連携できると言いたいわけではありません。むしろ、村上隆の背後にあるアートマーケットと、カオスラウンジの背後にあるネットワークが全く違うこと、そしてそれら2つは同時に手に入らない、ということがまず、意味のある事実だと思います。
.@hazuma 美学的に連携できるか、という問題に関してはもう少し射程が異なると思いますが、まず第一に、前提として日本のアートにおいて、カオス*ラウンジはスーパーフラットの子どもである、ということは間違いありません。そのことは日比谷の時点から明確にしていました。



黒瀬陽平




































